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zoom RSS 日本100名城クイズ・箕輪城

<<   作成日時 : 2017/05/10 22:56   >>

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箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城(平山城跡)で、国の史跡に指定されている。
箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる。



1 箕輪城主・長野氏を滅ぼしたのは?

ア 武田信玄
イ 上杉謙信
ウ 北条氏康

答えは下にスクロール。






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1 ア(永禄4年(1561年)11月、長野業正(ながの なりまさ)が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛(なりもり)が家督を継いだ。業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。

永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。)



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