日本100名城クイズ・高知城

高知城(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にある日本の城。別名鷹城(たかじょう)。
江戸時代、土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。
高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。







1 高知城築城の際、問題となったのは?

ア 塩害
イ 風害
ウ 水害

答えは下にスクロール。











高知城 (PHPムック)
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西ヶ谷 恭弘

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1 ウ(慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
慶長6年(1601年)8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は長宗我部氏が一旦築城を断念した大高坂山の地に新城を築くこととしたが、同地は浦戸湾に面した地の利があるが、当時、同地周辺は湿原が広がるデルタ地帯で、長宗我部氏が断念したほどの水害の難所であり、山内家の技術では困難が予想された。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。
木材は同国内から、石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注した、とされている。その他専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家家臣団も利用された。子供も工夫として参加させ、賃金も支払われた。一日の参加人数は1200人を越えたと伝わる。冬の寒い時期は粥などの炊き出しを行い、月の明るい夜は夜通しの工事も行われた。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで、2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。)

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