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zoom RSS 旧国名クイズ・豊後国

<<   作成日時 : 2012/08/02 22:39   >>

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領域は現在の大分県のうち宇佐市と中津市を除いた大部分にあたる。


1 豊後国の国府のあった大分県大分市の天然記念物は?
ア ニホンオオカミ
イ ニホンザル
ウ ニホンカモシカ
エ ニホンカワウソ

2 豊後国の一宮・西寒多神社(ささむたじんじゃ)にある石造アーチ橋の名前は?
ア 一年橋
イ 百年橋
ウ 千年橋
エ 万年橋

3 豊後国発祥とされるのは?
ア 豊後絞り
イ 豊後結い
ウ 豊後染め
エ 豊後飾り

答えは以下反転。
1 イ(高崎山自然動物園(たかさきやましぜんどうぶつえん)は、大分県大分市の高崎山にある自然公園である。
高崎山には古くから野生の猿が住んでおり、明治時代末期には約600頭ほどにもなった。その後、大正時代の山火事で一時頭数が激減するが、1940年(昭和15年)には100頭以上を数えるようになり、終戦直後には200頭程度にまで増えて農作物への被害が深刻となった。そこで狩猟などによる猿の駆除が試みられたが失敗。これを耳にした当時の大分市長上田保が、駆除に代えて餌付けし観光資源として利用しようとしたのが始まりである。
1952年(昭和27年)11月26日に上田が高崎山山麓の万寿寺別院の和尚とともに餌付けを開始。餌付けが軌道に乗った翌1953年(昭和28年)3月15日に正式に開園した。その際、上田の発案で、料金の表示を「小人十円、大人は小人並」としたことも話題を集めた[3]。同年のうちに、高崎山が阿蘇国立公園(現阿蘇くじゅう国立公園)に指定されるとともに、高崎山の猿および猿生息地を国が天然記念物に指定)
2 エ(万年橋(まんねんばし)は、西寒多神社の入口を流れる大分川水系寒田川(通称みそぎ川)に架かる石造単アーチ橋である。昭和55年(1980年)4月8日に大分県の有形文化財に指定されている。
主構造がアーチであるだけでなく、路面も緩やかな弧を描く太鼓橋で、路面とアーチとの間の石組が狭いのが特徴である。江戸時代末の文久2年(1862年)に当時延岡藩領であった寒田村の庄屋らが発起し、岡藩領であった大野郡柴北村(現豊後大野市犬飼町)の石工2代目後藤郷兵衛ら20名によって同年に竣工した)
3 ア(豊後絞り(ぶんごしぼり)は、豊後国(現在の大分県)で始められた絞り染め及びそこから発祥したとされる技法の名称。三浦絞りとも呼ばれる。大分県においては明治以降廃れていたが近年復興された。
豊後国高田荘(現在の大分市東部)では、鎌倉時代に相模国から地頭として下向した三浦氏の一族によって、室町時代後期に木綿の栽培が始められたとされる。その木綿で作った布は「三浦木綿」と呼ばれて名産となった。江戸時代初期には、この三浦木綿を絞り染めの技法を用いて藍染めしたものが「豊後絞り」または「三浦絞り」と呼ばれ、特産品として全国に広まった。1638年に成立し1645年に刊行された俳諧書『毛吹草』には諸国の物産が収録されているが、この書において、豊後国の産物として絞り木綿が初出している。また、1803年に完成した『豊後国志』では、高田郷門田村で絞り木綿が生産されることが記されている。歌川豊国の浮世絵には「ぶんご絞り染め」と書かれたものがあり、井原西鶴の文の中にも「豊後絞りの脇あけ…」といった表現が存在する。
豊後絞りは明治の半ばに姿を消し、昭和の頃には豊後絞りの名もほとんど忘れられていたが、平成に入ってから大分において染織研究家安藤宏子の指導の下地元の主婦らにより豊後絞りの復興が進められ、2008年には大分合同新聞社によりおおいた遺産の一つとして認定された)



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